「輭酥(なんそ、軟酥)の法」は『夜船閑話』(本文)にあります。「小さな資料室」の資料310からその一部を引用します。
【原文】
予が曰く、酥(そ)を用ゆるの法得て聞いつべしや。幽(いう)が曰く、行者(ぎやうじや)定中(じやうちゆう)四大(しだい)調和せず、身心ともに勞疲する事を覺(かく)せば、心を起して應(まさ)に此の想(さう)をなすべし、譬へば色香(しきかう)C淨(しやうじやう)の輭酥(なんそ)鴨卵(あふらん)の大(おほい)さの如くなる者、頂上に頓在(とんざい)せんに、其の氣味微妙(みめう)にして、遍(あまねく)く頭顱(づろ)の間(あひだ)にうるほし、浸々(しんしん)として潤下(じゆんか)し來(きた)つて、兩肩(りやうけん)及び双臂(さうひ)、兩乳(りやうにう)胸膈(きようかく)の間(あひだ)、肺肝(はいかん)腸胃(ちやうゐ)、脊梁(せきりやう)臀骨(どんこつ)、次第に沾注(てんちう)し將(も)ち去る。此時に當つて、胸中の五積(しやく)六聚(しゆ)、疝癪(せんべき)塊痛(くわいつう)、心に隨つて降下(かうげ)する事、水の下(しも)につくが如く歴々として聞(こゑ)あり、遍身(へんしん)を周流し、雙脚(さうきやく)を温潤し、足心(そくしん)に至つて即ち止む。行者再び應(まさ)に此の觀をなすべし、彼(か)の浸々として潤下(じゆんか)する所の餘流(よりう)、積り湛(たた)へて暖め蘸(ひた)す事、恰(あたか)も世の良醫の種々妙香(めうかう)の藥物(やくぶつ)を集め、是れを煎湯(せんたう)して浴盤(よくばん)の中(なか)に盛り湛へて、我が臍輪(さいりん)以下を漬(つ)け蘸(ひた)すが如し、此の觀をなす時唯心(ゆゐしん)の所現(しよげん)の故に、鼻根(びこん)乍(たちま)ち希有(けう)の香氣を聞き、身根(しんこん)俄かに妙好(めうかう)の輭觸(なんしよく)を受く。身心(しんしん)調適(てうてき)なる事、二三十歳の時には遙かに勝(まさ)れり。此の時に當つて、積聚(しやくじゆ)を消融(せうゆう)し腸胃(ちやうゐ)を調和し、覺えず肌膚(きふ)光澤を生ず。若(も)し夫(そ)れ勤めて怠らずんば、何(なに)の病(やまひ)か治(ぢ)せざらん、何(なに)のコか積まらざん、何の仙(せん)か成(じやう)ぜざる、何の道か成ぜざる。其の功驗(こうけん)の遲速は行人(ぎやうにん)の進修(しんしう)の麤(せいそ)に依(よ)るらくのみ。
白隠禅師が「酥を用いる法を何卒お教えこうむりたい」と願ったことに対し、白幽子が「修行者が瞑想して行を行っている時に四大(骨・筋肉、血液、熱・体温、呼吸)が調和せず、身心ともに疲れを覚えるならば、心を起こしてこの念想をすべきである」と答えています。
「酥」とは、牛や羊の乳を煮詰めて濃くしたもので、吉田豊氏(『牛乳と日本人』新宿書房刊)によれば、「乳を加熱して表面にできた乳皮をすくい取って容器に入れ(繰り返す)、温めてよく攪拌し、冷水を加えて固めたもの。クリームもしくは粗製バター」とのことです。白隠禅師の『遠羅天釜(おらでがま)』には、「諸法実相1斤、我法2空各1両、寂滅現前3両、無欲2両、動静不二3両、糸瓜(ヘチマ)の皮1分5厘、放下着(ほうげじゃく)1斤、右七味を忍辱(ニンニク)の汁に浸すこと一夜、陰乾(かげぼし)して抹す。次にこれを般若波羅蜜という蜜で練り合わせ、丸めて鴨の卵の大きさにしたものである」と書かれています。鶏卵より少し大きい卵の形をしたクリームかバターのようなもので、体温により溶けて体中を廻り流れて癒す、世界最高の丸薬であると想像して下さい。
その次の部分の現代語訳を伊豆山格堂著 『白隠禅師 夜船閑話』(昭和58年 春秋社刊)から引用します。
【現代語訳】
たとえば色彩や香気が清らかで、鴨の卵のような大きさの軟酥を頭の上にひょいと置いたと仮定する。そのにおいと味わいは何とも言いようもない位すばらしいものだが、それが頭全体を潤し、次第にじわじわと辺りを潤しながら下って来て両肩両肘に及び、両乳、胸と腹の間、肺、肝、腸、胃、背骨、腰骨、と次第に潤しそそぐ。この時、胸中にたまった五臓六腑の気のとどこおり、疝気やその他局部的の痛みが、心気の降下に従って降下すること、水が下に流れるようであり、はっきりその音が聞こえる。蘇は全身を廻り流れ、両脚を温かく潤し、足の土踏まずに至ってとどまる。
修行者はそこで再び次の如く観ずべきである。じわじわと潤しながら流れ下る酥の余流・支流が、積もり湛え、暖めひたすことは、あたかも世の良医が種々の妙なる香りのする薬を集め、是を湯で煎じてふろおけの中に湛え、自分の臍より下をつけひたす(腰湯をする)ようなものだ。
此の観をなす時、華厳経にいう通り一切唯心造(あらゆる事物や現象は「心」の働きであり、「心」が造り出したもの)であるから、鼻はたちまち妙香を聞き、皮膚に妙なる軟酥が触れる心地がする。心身快適なることは二、三十歳の時より遥かに勝っている。此の時に当たって、五臓六腑の気の滞りをなくし、胃腸を調和し、おのずから肌に光沢を生じる。もし此の観法を勤めはげむなら、いかなる病でも治らないことなく、いかなる徳も積むことができる。どんな仙人にもなれないことはないし、どんな道でも成就できないことはない。その効果の遅速は、修行者の精進修行が綿密か否かに依るのみである。
白井亨は、水行によって体を壊していたので、「内観の法」に加えて「軟酥の法」も修したようです。したがって、彼が言っている「練丹の法」はこれら二つを指しています。3年をまたず効果が現れたとのことですから、水行のように毎日、ある程度の時間を掛けて行ったものと思われます。朝晩、各30分といったところでしょうか。
甲野義紀氏は、『剣の精神誌』(1991年 新曜社刊)で白井亨の剣術が後代に伝わらなかったことを以て心法(心術)の剣を評価していないようですが、私は、心法によって求めることが無意味なのではなく、白井亨が挙げている「練丹の法」だけでは不足しているものがあるから後世の者が会得できなかったのだと思います。
心法(練丹の法、観想法)は気の妙用を体得する方法と言っても良いので、念、腹式呼吸、響きが必要だと思います。「練丹の法」には、念(妄想、念想、イメージ)とそれに伴う腹式呼吸は含まれていますが、響きが強調されていないようです。私は、それが欠如していたために心法の剣が伝承されなかったのではないかと思っています。
開祖の言葉には、次のように念、腹式呼吸、響きが強調されています。
「修行には、まず己れの心魂を練りにねり、かつ<念>の活力を研ぎすまし、心と肉体の統一をはかることこそ先決である。これこそ、すすんで業の発兆の土台となり、その業は<念>によって無限に発兆する。
業はあくまで、宇宙の真理に合していることが不可欠である。そのためには正しい<念>が不可欠である。
(中略)
『気の妙用』は、呼吸を微妙に変化せしむる生親である。これすなわち武なる愛の、本源である。『気の妙用』によって心身を統一し、合気の道を行ずるとき、呼吸の微妙なる変化はここよりおのずから流れいで、業は自由自在にあらわれる。
(中略)
その<武産>の武のそもそもは<雄叫び>であり、五体の<響き>の槍の穂を阿吽の力をもって宇宙に発兆したるものである。
五体の<響き>は心身の統一をまず発兆の土台とし、発兆したるのちには宇宙の<響き>と同調し、相互に照応・交流しあうところから合気の<気>を生じる。すなわち、五体の<響き>が宇宙の<響き>とこだまする<山彦>の道こそ合気道の妙諦にほかならぬ。
そこに高次の身魂の熱と光と力とが生じ、かつ結ばれることとなる。微妙にこだまする五体と宇宙の<響き>の活性が『気の妙用』を熟せしめ、武なる愛、愛なる武としての<武産合気>を生ましめるのである。」(『合気道開祖 植芝盛平伝』p181)
座禅も気功も、『夜船閑話』の練丹の法と同様、響きはありませんが、ヨーガでは、タントラ、マントラ(音)、ヤントラ(形)といって、マントラ(真言と漢訳されている)が大切なものの一つになっています。「オウム(AUM)」のマントラについては聞いたことがあると思いますが、響きがあるヨーガでは、開祖が言われているように体から熱や光が出るという体験をする人が多いようです。
私は、静かに瞑想するだけの修法では武道に生かせるものなるまでかなりの時間が掛かるか、特別な才能がある人しか達せられないのではないかと思います。開祖が言霊といって「ス」や「ア、オ、ウ、エ、イ」のことに触れられていて、「気の妙用」と「言霊の妙用」を同じ意味で使われているところから、心法の武道には響きが欠かせないと思います。
白井亨は、師の寺田宗有から「徳本行者(浄土宗の念仏行者)に参じて唱名せよ」と勧められていますので、南無阿弥陀仏を唱えたことだろうと思います。これがマントラに相当する響きとなって、気の妙用を身につけるのに役立ったのだと思います。
2012年07月12日
練丹の法(1)
白井亨が、今までの心法の剣を遺した人が「練丹の法」を伝えなかったのでその剣法が後世に伝わらなかった、と指摘していますが、彼が修した練丹の法は白隠禅師(1686年 - 1768年)が『夜船閑話(やせんかんな)』に記した「内観法」と「輭酥(なんそ、軟酥)の法」でした。
白隠禅師は、70歳を超えても歯が一本も欠けず、視力も衰えず、また、若者と一緒に山野を跋渉しても疲れることを知らなかった、という人でしたが、25、6歳の頃、禅病に罹り、強度の神経衰弱と肺病(肺結核)に悩まされました。自律神経(交感神経・副交感神経)のバランスが崩れ、熱があるにも関わらず両足は氷のように冷たく、耳鳴りがし、体が気だるく震えがあり、心はあれこれと取り越し苦労をし、夢に悩まされ、両腋には常に汗を生じ、両眼は涙が出て止まらずという状態に陥ったことがあったそうです。その時、京都白河(現在の京都市左京区白河)の山中に白幽仙人(道士)を訪ね、そこで「輭酥の法」という養生法を授かります。そうして修法すること3年と経たないうちに、薬を用いず鍼灸もせずに病気が治ってしまいます。まるで、中村天風先生のような話です。白幽仙人に助けられたということからでしょうか、白隠という名に白幽からの一字があり、禅家というよりもどことなく道家のような名です。臨済宗中興の祖と称えられ、山岡鉄舟の働きかけもあり、明治天皇から正宗(せいしゅう)国師の諡号(しごう、おくりな)を賜っています。
白井亨が修した内観法は、『夜船閑話 序』にあります。「小さな資料室」http://www.geocities.jp/sybrma/index.htmlに資料310として原文が収録されていますので、その一部を引用します。
【原文】
我に仙人還丹(せんにんげんたん)の秘訣(ひけつ)あり、儞(なんぢ)が輩(ともがら)試(こゝろみ)に是れを修せよ、奇功を見る事、雲霧を披(ひら)きて皎日(かうじつ)を見るが如けん。
若し此の秘要(ひえう)を修せんと欲せば、且(しば)らく工夫を抛下(はうげ)し、話頭を拈放(ねんはう)して、先づ須(すべか)らく熟睡一覺すべし。其の未だ睡りにつかず、眼(まなこ)を合せざる以前に向(むか)つて、長く兩脚(りやうきやく)を展(の)べ、強く踏みそろへ、一身の元氣をして、臍輪氣海丹田腰脚足心(さいりん・きかい・たんでん・えうきやく・そくしん)の間(あひだ)に充たしめ、時々(じゞ)に此の觀を成すべし。我が此の氣海丹田腰脚足心、總(そう)に是れ我が本來の面目(めんもく)、面目何の鼻孔(びこう)かある。我が此の氣海丹田、總に是れ我が本分の家郷、家郷何の消息かある。我が此の氣海丹田、總に是れ我が唯心(ゆゐしん)の淨土、淨土何の莊嚴(しやうごん)かある。我が此の氣海丹田、總に是れ我が己心(こしん)の彌陀(みだ)、彌佗何の法をか説くと、打返し打返し常に斯(かく)の如く妄想(まうざう)すべし。
妄想の功果(こうくわ)積らば、一身の元氣いつしか腰脚足心の間に充足して、臍下瓠然(こぜん)たる事、未だ篠打(しのうち)せざる鞠(まり)の如(ごと)けん。恁麼(いんも)に單々に妄想(まうざう)し將(も)ち去つて、五日(じつ)七日(じつ)乃至二三七日(じつ)を經たらむに、從前の五積六聚(ごしやくろくじゆ)氣虚(ききよ)勞役(らうえき)等の諸症、底(そこ)を拂つて平癒せずんば、老僧が頭(かうべ)を切り將(も)ち去れ。
現代語訳は荒井荒雄著『仰臥禅 白隠禅師内観の秘法による心身改造』(昭和39年 明玄書房刊)から引用し、それを現代仮名遣いに直して示します。
【現代語訳】
自分は仙人還丹の秘訣を知っているから、諸子よ是を試みてやって見よ。不思議な効能があり、雲や霧が霽(は)れて、太陽を見るが如くに薩張りとするぞ(仙人還丹と云うは内観の秘法のことにて丹田に気を錬るの法を云う。仙人が丹薬を錬ると両方へ掛けて意味あり気に云ったものである)。
若し此の秘訣修せんと思うならば、暫く先ず思慮分別を放擲し、持って居る公案などは抛り出して、ぐっすりとよく睡って、それから眼を覚すことにするがよい。そして未だ睡らず眼を合わせない以前に向かって長く両脚を展べて踏み揃い、一身の元気を臍の辺り又は下腹腰脚足心(足心とは足の裏の窪き処)一体の間に充たしめ、時々間断なく此の観念、即ち念想をすること。
・ 我が此の気海丹田、腰脚足心は、凡て我が本来の面目である。其の面目にはどんな鼻の孔が空いているか。
・ 我が此の気海丹田は、凡て我が家郷である。其の家郷とすれば、其の便りはどうか。
・ 我が此の気海丹田は、凡て我が唯心の浄土である。浄土とすれば其の荘厳の有様はどうか。
・ 我が此の気海丹田は、凡て我れ自身の阿弥陀仏である。それなら其の阿弥陀はどんな説法をされているか。
と、間断なく此の妄想(観想)を続けるがよい(妄想とは煩悩妄想の意ではなく、仮想して観念せよ観法せよと云うことにて、四つ共、是を公案の如くして自己と一つになれと云うことである。しかし、公案の工夫の如く工夫と云う方面を専一にすることではなく、気海丹田腰脚足心と云う方へ力を傾けて想念して見よと云うのである)。斯くして想念の効果を積み重ねると、一身の元気がいつとはなしに充満して来て、臍下丹田は瓢(ふくべ、瓢箪)の様に丸く盛り上がって、力が張って、恰(あたか)も篠打ちしない鞠のようであろう。斯のように脇目も振らずひたすらに観想して五日より七日、また十四日、二十一日と経過するならば、以前から五臓六腑の鬱気のつかれし諸病は徹底して平癒するであろう。若しそれが実現しない場合は責任上、自分の首を切って持ち行くがよい。
我が本来の面目とは自分の本来の姿、即ち真我で、中村天風先生によると「先天の一気」、開祖なら「スの言霊」ということになると思います。
荒井荒雄は、「内観の法といっても、白隠禅師のいう内観と心理学でいう内観とは意味が違うのである。心理学でいう内観とは自分の経験を内より観察することであるが、白隠禅師のそれは妄念を放下し、心を空にし、臍下丹田に意識を集中統一して全身全霊を善きもので充たすことである。善きものとは『本来の面目』『唯心の浄土』『己心の弥陀』である。これこそ正に最高の思想であり、これ以上の善きものはないのである。そしてこの最高の思想を気海丹田に凝らし、そこに練り込むのである。いわゆる仙人還丹である。『至人は常に心を下に充たしむ』また『元気をして常に下に充たしむ』と『夜船閑話』にあるように、頭の中に充たす心火逆上でなくして、心火を降下して気海丹田に充たすのである」と解説しています。
私は、禅の高僧が敢えて「妄想すべし」と教えているところがポイントであろうかと思います。善きものとして自由にイメージして良いのです。こうでなければならないとか、理屈に合わないことは受け入れられないとか考えないで、子供が空想するようにイメージして良いのです。
開祖は、「一切の力は気より、気は空に結んでありのままに見よ。箱の中に入れるな。気はいながらにして淤能碁呂島(おのころじま)を一のみに出来る。気の自由を第一に悟れ。気の流れを知りつくせ。朝夕神前に一時間鎮魂をせよ。知恵の光をもって自己を知る。日の本の『ス』を知るのであります」(『合気神髄』p.131)と話されています。この場合の「淤能碁呂島」は沼島というような限定された小さな島ではなく、大きな地球という意味であり、地球の衛星写真を見たことのある人は容易にイメージ出来ると思います。その地球が我が臍下丹田にあって、それを「我が家郷(日の本の『ス』)」と感じても良いようです。
公案のように難しく考える必要はないという意味でも妄想という言葉を遣っているので、自由に善きものをイメージしてみましょう。
「相生き」について、前に私の考えを述べましたが、大本信徒連合会の出口信一先生が、『全米合気界に招かれて』という講演の中で「王仁三郎聖師は盛平師に『貴方の天職は武道だから、その道に精進するように』とアドバイスをした。そして盛平師の武術に『相生流』(あいおいりゅう)と名付けます。『相生』とは天と地を意味し、相手を倒す武術から相手を生かす、また相共に生きるという意味に価値が一変する瞬間でもありました。相生流から相気(あいき)そして現在の合気(あいき)と変遷してゆくわけですが、その理念は変わることなく現在も根底に息づいています」と話されていることを知りました(http://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=59には、もっと他の興味あることが載っていますのでご覧下さい)。
“I am OK. You are OK.”が「相生」であれば、この妄想すべきは、まず“I am OK.”の部分かと思います。
キリスト教の「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」とか「わたし(イエス・キリスト)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とかいう教えの中の「愛する」ということが“OK”です。
内観法(呼吸法、気功、ヨーガ)で、外界から酸素を取り入れ、体内で酸素交換を行い、血流を良くすることによって、細胞が活性化され、身体の健康が向上することは容易に理解できますが、禅病(心身症や自律神経失調症のような精神の病)が治ったということですから、内観法に含まれるこのような自己肯定のプロセスの重要性も見逃せません。
剣道の四病、驚擢疑惑(きょうくぎわく)は剣道だけのものではありません。人生の問題そのものです。現代のように先行きの不安が増大する中で、自分は何のためにこの世に生を受けたかを考えて、本来の面目を明らかにし、それが善きものであることに気付くことも大切です。このことは、「両刃、鋒を交えて避くるを須いず」という場面で、平常心を得るのに欠かせないものになるはずです。
妄想(イメージを自由に膨らませること)と自己肯定(本来の自分になること)がこの方法のポイントであろうかと思います。
白隠禅師は、70歳を超えても歯が一本も欠けず、視力も衰えず、また、若者と一緒に山野を跋渉しても疲れることを知らなかった、という人でしたが、25、6歳の頃、禅病に罹り、強度の神経衰弱と肺病(肺結核)に悩まされました。自律神経(交感神経・副交感神経)のバランスが崩れ、熱があるにも関わらず両足は氷のように冷たく、耳鳴りがし、体が気だるく震えがあり、心はあれこれと取り越し苦労をし、夢に悩まされ、両腋には常に汗を生じ、両眼は涙が出て止まらずという状態に陥ったことがあったそうです。その時、京都白河(現在の京都市左京区白河)の山中に白幽仙人(道士)を訪ね、そこで「輭酥の法」という養生法を授かります。そうして修法すること3年と経たないうちに、薬を用いず鍼灸もせずに病気が治ってしまいます。まるで、中村天風先生のような話です。白幽仙人に助けられたということからでしょうか、白隠という名に白幽からの一字があり、禅家というよりもどことなく道家のような名です。臨済宗中興の祖と称えられ、山岡鉄舟の働きかけもあり、明治天皇から正宗(せいしゅう)国師の諡号(しごう、おくりな)を賜っています。
白井亨が修した内観法は、『夜船閑話 序』にあります。「小さな資料室」http://www.geocities.jp/sybrma/index.htmlに資料310として原文が収録されていますので、その一部を引用します。
【原文】
我に仙人還丹(せんにんげんたん)の秘訣(ひけつ)あり、儞(なんぢ)が輩(ともがら)試(こゝろみ)に是れを修せよ、奇功を見る事、雲霧を披(ひら)きて皎日(かうじつ)を見るが如けん。
若し此の秘要(ひえう)を修せんと欲せば、且(しば)らく工夫を抛下(はうげ)し、話頭を拈放(ねんはう)して、先づ須(すべか)らく熟睡一覺すべし。其の未だ睡りにつかず、眼(まなこ)を合せざる以前に向(むか)つて、長く兩脚(りやうきやく)を展(の)べ、強く踏みそろへ、一身の元氣をして、臍輪氣海丹田腰脚足心(さいりん・きかい・たんでん・えうきやく・そくしん)の間(あひだ)に充たしめ、時々(じゞ)に此の觀を成すべし。我が此の氣海丹田腰脚足心、總(そう)に是れ我が本來の面目(めんもく)、面目何の鼻孔(びこう)かある。我が此の氣海丹田、總に是れ我が本分の家郷、家郷何の消息かある。我が此の氣海丹田、總に是れ我が唯心(ゆゐしん)の淨土、淨土何の莊嚴(しやうごん)かある。我が此の氣海丹田、總に是れ我が己心(こしん)の彌陀(みだ)、彌佗何の法をか説くと、打返し打返し常に斯(かく)の如く妄想(まうざう)すべし。
妄想の功果(こうくわ)積らば、一身の元氣いつしか腰脚足心の間に充足して、臍下瓠然(こぜん)たる事、未だ篠打(しのうち)せざる鞠(まり)の如(ごと)けん。恁麼(いんも)に單々に妄想(まうざう)し將(も)ち去つて、五日(じつ)七日(じつ)乃至二三七日(じつ)を經たらむに、從前の五積六聚(ごしやくろくじゆ)氣虚(ききよ)勞役(らうえき)等の諸症、底(そこ)を拂つて平癒せずんば、老僧が頭(かうべ)を切り將(も)ち去れ。
現代語訳は荒井荒雄著『仰臥禅 白隠禅師内観の秘法による心身改造』(昭和39年 明玄書房刊)から引用し、それを現代仮名遣いに直して示します。
【現代語訳】
自分は仙人還丹の秘訣を知っているから、諸子よ是を試みてやって見よ。不思議な効能があり、雲や霧が霽(は)れて、太陽を見るが如くに薩張りとするぞ(仙人還丹と云うは内観の秘法のことにて丹田に気を錬るの法を云う。仙人が丹薬を錬ると両方へ掛けて意味あり気に云ったものである)。
若し此の秘訣修せんと思うならば、暫く先ず思慮分別を放擲し、持って居る公案などは抛り出して、ぐっすりとよく睡って、それから眼を覚すことにするがよい。そして未だ睡らず眼を合わせない以前に向かって長く両脚を展べて踏み揃い、一身の元気を臍の辺り又は下腹腰脚足心(足心とは足の裏の窪き処)一体の間に充たしめ、時々間断なく此の観念、即ち念想をすること。
・ 我が此の気海丹田、腰脚足心は、凡て我が本来の面目である。其の面目にはどんな鼻の孔が空いているか。
・ 我が此の気海丹田は、凡て我が家郷である。其の家郷とすれば、其の便りはどうか。
・ 我が此の気海丹田は、凡て我が唯心の浄土である。浄土とすれば其の荘厳の有様はどうか。
・ 我が此の気海丹田は、凡て我れ自身の阿弥陀仏である。それなら其の阿弥陀はどんな説法をされているか。
と、間断なく此の妄想(観想)を続けるがよい(妄想とは煩悩妄想の意ではなく、仮想して観念せよ観法せよと云うことにて、四つ共、是を公案の如くして自己と一つになれと云うことである。しかし、公案の工夫の如く工夫と云う方面を専一にすることではなく、気海丹田腰脚足心と云う方へ力を傾けて想念して見よと云うのである)。斯くして想念の効果を積み重ねると、一身の元気がいつとはなしに充満して来て、臍下丹田は瓢(ふくべ、瓢箪)の様に丸く盛り上がって、力が張って、恰(あたか)も篠打ちしない鞠のようであろう。斯のように脇目も振らずひたすらに観想して五日より七日、また十四日、二十一日と経過するならば、以前から五臓六腑の鬱気のつかれし諸病は徹底して平癒するであろう。若しそれが実現しない場合は責任上、自分の首を切って持ち行くがよい。
我が本来の面目とは自分の本来の姿、即ち真我で、中村天風先生によると「先天の一気」、開祖なら「スの言霊」ということになると思います。
荒井荒雄は、「内観の法といっても、白隠禅師のいう内観と心理学でいう内観とは意味が違うのである。心理学でいう内観とは自分の経験を内より観察することであるが、白隠禅師のそれは妄念を放下し、心を空にし、臍下丹田に意識を集中統一して全身全霊を善きもので充たすことである。善きものとは『本来の面目』『唯心の浄土』『己心の弥陀』である。これこそ正に最高の思想であり、これ以上の善きものはないのである。そしてこの最高の思想を気海丹田に凝らし、そこに練り込むのである。いわゆる仙人還丹である。『至人は常に心を下に充たしむ』また『元気をして常に下に充たしむ』と『夜船閑話』にあるように、頭の中に充たす心火逆上でなくして、心火を降下して気海丹田に充たすのである」と解説しています。
私は、禅の高僧が敢えて「妄想すべし」と教えているところがポイントであろうかと思います。善きものとして自由にイメージして良いのです。こうでなければならないとか、理屈に合わないことは受け入れられないとか考えないで、子供が空想するようにイメージして良いのです。
開祖は、「一切の力は気より、気は空に結んでありのままに見よ。箱の中に入れるな。気はいながらにして淤能碁呂島(おのころじま)を一のみに出来る。気の自由を第一に悟れ。気の流れを知りつくせ。朝夕神前に一時間鎮魂をせよ。知恵の光をもって自己を知る。日の本の『ス』を知るのであります」(『合気神髄』p.131)と話されています。この場合の「淤能碁呂島」は沼島というような限定された小さな島ではなく、大きな地球という意味であり、地球の衛星写真を見たことのある人は容易にイメージ出来ると思います。その地球が我が臍下丹田にあって、それを「我が家郷(日の本の『ス』)」と感じても良いようです。
公案のように難しく考える必要はないという意味でも妄想という言葉を遣っているので、自由に善きものをイメージしてみましょう。
「相生き」について、前に私の考えを述べましたが、大本信徒連合会の出口信一先生が、『全米合気界に招かれて』という講演の中で「王仁三郎聖師は盛平師に『貴方の天職は武道だから、その道に精進するように』とアドバイスをした。そして盛平師の武術に『相生流』(あいおいりゅう)と名付けます。『相生』とは天と地を意味し、相手を倒す武術から相手を生かす、また相共に生きるという意味に価値が一変する瞬間でもありました。相生流から相気(あいき)そして現在の合気(あいき)と変遷してゆくわけですが、その理念は変わることなく現在も根底に息づいています」と話されていることを知りました(http://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=59には、もっと他の興味あることが載っていますのでご覧下さい)。
“I am OK. You are OK.”が「相生」であれば、この妄想すべきは、まず“I am OK.”の部分かと思います。
キリスト教の「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」とか「わたし(イエス・キリスト)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とかいう教えの中の「愛する」ということが“OK”です。
内観法(呼吸法、気功、ヨーガ)で、外界から酸素を取り入れ、体内で酸素交換を行い、血流を良くすることによって、細胞が活性化され、身体の健康が向上することは容易に理解できますが、禅病(心身症や自律神経失調症のような精神の病)が治ったということですから、内観法に含まれるこのような自己肯定のプロセスの重要性も見逃せません。
剣道の四病、驚擢疑惑(きょうくぎわく)は剣道だけのものではありません。人生の問題そのものです。現代のように先行きの不安が増大する中で、自分は何のためにこの世に生を受けたかを考えて、本来の面目を明らかにし、それが善きものであることに気付くことも大切です。このことは、「両刃、鋒を交えて避くるを須いず」という場面で、平常心を得るのに欠かせないものになるはずです。
妄想(イメージを自由に膨らませること)と自己肯定(本来の自分になること)がこの方法のポイントであろうかと思います。
posted by 八千代合気会 乾 at 17:47| 白井亨の世界
2012年06月03日
白井亨が求めたもの、そして・・・
白井亨(1783年 - 1843年)は、彼より180年ほど前に生まれた針ヶ谷夕雲(はりがや せきうん、生年不詳 - 1669年)の無住心剣術という心法の剣術に触発された人です。無住心剣術は「相抜け」を極意とするもので、力(技)が互角の者が試合をしたら相打ちになるところを一段抜けて(aufheben、止揚して)「相抜け」という境地に至ったものです。白井亨の時代には「相抜け」は失伝していましたが、彼は、これを心法の剣術ということで捉えて、このような境地に至るには練丹の法が必要であると説いています。
「又、昔、針个谷(針ヶ谷)夕雲(初め五郎左衛門と云う、小笠原玄信の弟子、無住心剣術の祖)、小田切(小出切)一雲(初め恕庵と云う、一雲と改め、夕雲の弟子、六十歳にて出家し空鈍と号す、筆剣の二芸を生涯の楽しみとす)、金子夢幻(高田侯の臣、弥次右衛門と云う、法心流の祖なり)、山内蓮心(八流斎と云う、平常無敵流の祖)等の遺書(兵法書)あり、各兵法に於いて微妙を得て、其の得し所を述べたるは、天下人なしと云へども、其の書、各(おのおの)練丹の事を論ぜず(右四人、各名人なりと云へども殊に一雲を古今独歩とす、一雲死して後五年を経て宝永七庚寅-1710年-白隠禅師始めて練丹の術を城州-山城国-白川の白幽仙人に学ぶ、此れ近世へ伝るの創めなり)、此れ其の人敏にして、暗に(いつの間にか)其の妙を得し者なり、其の書真理に通ずといへども、練丹の法なくして階梯(カリキュラム)なきが故に空理にひとし」(兵法未知志留辺 巻之上)
武道の極意を工夫するのに、これを心法として捉えることにより、「相抜け」が成立するようです。そして、誰もがそこに至るには練丹の法(観想法)によらなければならない、とするのが白井亨の考えです。
「相打ち」から「相抜け」というアウフヘーベン(止揚)について考えていた時、頭に浮かんで来たのは「相生き」という言葉です。「相打ち」→「相抜け」を更にアウフヘーベンすると「相生き」に到達する、と思ったのです。これが何だろうと思い巡らす内に、これは開祖が求められた生成化育の境地で、和を尊ぶ日本の武道が求めた極点であるという思いがしてきました。
開祖は、昭和3年(1928)に相生流(あいおいりゅう)合気柔術を名乗られていますが、「相生(あいおい)」とは「相生き(あいいき)」を意味していたのではないかと思い至った訳です。確かに「相生(あいおい)」には、「一緒に生育すること」、「一つの根元から二つ幹が分かれて伸びること。また、2本の幹が途中で一緒になっていること」などの意味があります。そして言霊的には「相生き」は「あいき」と読んでも良いと思います。
開祖の次の言葉は、そのことを述べられていると思います。
「昔から武道は誤って人命を絶ち、殺し合う方向に進んで来たのでありますが、合気は人命を救う為に有るのであります」
「森羅万象全てに、虫けら迄にもその処を得さしめ、そして各々の道を守り、生成化育の大道を明らかにするのが合気道の道であります」
白井亨が「相生き」まで考えていたとは思いませんが、「不敗の境地」を求め、心法による武道の工夫を続けると遂に「相生き」に至ると考えて、白井亨の世界に踏み入りたいと思います。
「斬殺既に身に至らんとするに臨み、平常修得の本事現前して不敗の地に立ち、生死活殺を明にするの術を天真傳兵法と号(なづ)く」(明道論)
そうすると、合気道も「生け捕り」という術技のレベルを離れ、心法である練丹の法(開祖は鎮魂帰神法)による「相生き」の境地に至ることが出来ると思います。
「武人は常に神に祈りを忘れず、鎮魂帰神法による技を会得し言振れせずに悟り行うことである。小戸の神業(おどのかむわざ)とは、舌三寸(言霊を発すること)の天之村雲 (あめのむらくも)の神剣である。言霊(ことたま)で人を生かす事も殺すことも自由に使えるという」(武道禊の巻)
「又、昔、針个谷(針ヶ谷)夕雲(初め五郎左衛門と云う、小笠原玄信の弟子、無住心剣術の祖)、小田切(小出切)一雲(初め恕庵と云う、一雲と改め、夕雲の弟子、六十歳にて出家し空鈍と号す、筆剣の二芸を生涯の楽しみとす)、金子夢幻(高田侯の臣、弥次右衛門と云う、法心流の祖なり)、山内蓮心(八流斎と云う、平常無敵流の祖)等の遺書(兵法書)あり、各兵法に於いて微妙を得て、其の得し所を述べたるは、天下人なしと云へども、其の書、各(おのおの)練丹の事を論ぜず(右四人、各名人なりと云へども殊に一雲を古今独歩とす、一雲死して後五年を経て宝永七庚寅-1710年-白隠禅師始めて練丹の術を城州-山城国-白川の白幽仙人に学ぶ、此れ近世へ伝るの創めなり)、此れ其の人敏にして、暗に(いつの間にか)其の妙を得し者なり、其の書真理に通ずといへども、練丹の法なくして階梯(カリキュラム)なきが故に空理にひとし」(兵法未知志留辺 巻之上)
武道の極意を工夫するのに、これを心法として捉えることにより、「相抜け」が成立するようです。そして、誰もがそこに至るには練丹の法(観想法)によらなければならない、とするのが白井亨の考えです。
「相打ち」から「相抜け」というアウフヘーベン(止揚)について考えていた時、頭に浮かんで来たのは「相生き」という言葉です。「相打ち」→「相抜け」を更にアウフヘーベンすると「相生き」に到達する、と思ったのです。これが何だろうと思い巡らす内に、これは開祖が求められた生成化育の境地で、和を尊ぶ日本の武道が求めた極点であるという思いがしてきました。
開祖は、昭和3年(1928)に相生流(あいおいりゅう)合気柔術を名乗られていますが、「相生(あいおい)」とは「相生き(あいいき)」を意味していたのではないかと思い至った訳です。確かに「相生(あいおい)」には、「一緒に生育すること」、「一つの根元から二つ幹が分かれて伸びること。また、2本の幹が途中で一緒になっていること」などの意味があります。そして言霊的には「相生き」は「あいき」と読んでも良いと思います。
開祖の次の言葉は、そのことを述べられていると思います。
「昔から武道は誤って人命を絶ち、殺し合う方向に進んで来たのでありますが、合気は人命を救う為に有るのであります」
「森羅万象全てに、虫けら迄にもその処を得さしめ、そして各々の道を守り、生成化育の大道を明らかにするのが合気道の道であります」
白井亨が「相生き」まで考えていたとは思いませんが、「不敗の境地」を求め、心法による武道の工夫を続けると遂に「相生き」に至ると考えて、白井亨の世界に踏み入りたいと思います。
「斬殺既に身に至らんとするに臨み、平常修得の本事現前して不敗の地に立ち、生死活殺を明にするの術を天真傳兵法と号(なづ)く」(明道論)
そうすると、合気道も「生け捕り」という術技のレベルを離れ、心法である練丹の法(開祖は鎮魂帰神法)による「相生き」の境地に至ることが出来ると思います。
「武人は常に神に祈りを忘れず、鎮魂帰神法による技を会得し言振れせずに悟り行うことである。小戸の神業(おどのかむわざ)とは、舌三寸(言霊を発すること)の天之村雲 (あめのむらくも)の神剣である。言霊(ことたま)で人を生かす事も殺すことも自由に使えるという」(武道禊の巻)
posted by 八千代合気会 乾 at 04:59| 白井亨の世界