2012年07月12日

練丹の法(1)

白井亨が、今までの心法の剣を遺した人が「練丹の法」を伝えなかったのでその剣法が後世に伝わらなかった、と指摘していますが、彼が修した練丹の法は白隠禅師(1686年 - 1768年)が『夜船閑話(やせんかんな)』に記した「内観法」と「輭酥(なんそ、軟酥)の法」でした。

白隠禅師は、70歳を超えても歯が一本も欠けず、視力も衰えず、また、若者と一緒に山野を跋渉しても疲れることを知らなかった、という人でしたが、25、6歳の頃、禅病に罹り、強度の神経衰弱と肺病(肺結核)に悩まされました。自律神経(交感神経・副交感神経)のバランスが崩れ、熱があるにも関わらず両足は氷のように冷たく、耳鳴りがし、体が気だるく震えがあり、心はあれこれと取り越し苦労をし、夢に悩まされ、両腋には常に汗を生じ、両眼は涙が出て止まらずという状態に陥ったことがあったそうです。その時、京都白河(現在の京都市左京区白河)の山中に白幽仙人(道士)を訪ね、そこで「輭酥の法」という養生法を授かります。そうして修法すること3年と経たないうちに、薬を用いず鍼灸もせずに病気が治ってしまいます。まるで、中村天風先生のような話です。白幽仙人に助けられたということからでしょうか、白隠という名に白幽からの一字があり、禅家というよりもどことなく道家のような名です。臨済宗中興の祖と称えられ、山岡鉄舟の働きかけもあり、明治天皇から正宗(せいしゅう)国師の諡号(しごう、おくりな)を賜っています。

白井亨が修した内観法は、『夜船閑話 序』にあります。「小さな資料室」http://www.geocities.jp/sybrma/index.htmlに資料310として原文が収録されていますので、その一部を引用します。
【原文】
我に仙人還丹(せんにんげんたん)の秘訣(ひけつ)あり、儞(なんぢ)が輩(ともがら)試(こゝろみ)に是れを修せよ、奇功を見る事、雲霧を披(ひら)きて皎日(かうじつ)を見るが如けん。
若し此の秘要(ひえう)を修せんと欲せば、且(しば)らく工夫を抛下(はうげ)し、話頭を拈放(ねんはう)して、先づ須(すべか)らく熟睡一覺すべし。其の未だ睡りにつかず、眼(まなこ)を合せざる以前に向(むか)つて、長く兩脚(りやうきやく)を展(の)べ、強く踏みそろへ、一身の元氣をして、臍輪氣海丹田腰脚足心(さいりん・きかい・たんでん・えうきやく・そくしん)の間(あひだ)に充たしめ、時々(じゞ)に此の觀を成すべし。我が此の氣海丹田腰脚足心、總(そう)に是れ我が本來の面目(めんもく)、面目何の鼻孔(びこう)かある。我が此の氣海丹田、總に是れ我が本分の家郷、家郷何の消息かある。我が此の氣海丹田、總に是れ我が唯心(ゆゐしん)の淨土、淨土何の莊嚴(しやうごん)かある。我が此の氣海丹田、總に是れ我が己心(こしん)の彌陀(みだ)、彌佗何の法をか説くと、打返し打返し常に斯(かく)の如く妄想(まうざう)すべし。
妄想の功果(こうくわ)積らば、一身の元氣いつしか腰脚足心の間に充足して、臍下瓠然(こぜん)たる事、未だ篠打(しのうち)せざる鞠(まり)の如(ごと)けん。恁麼(いんも)に單々に妄想(まうざう)し將(も)ち去つて、五日(じつ)七日(じつ)乃至二三七日(じつ)を經たらむに、從前の五積六聚(ごしやくろくじゆ)氣虚(ききよ)勞役(らうえき)等の諸症、底(そこ)を拂つて平癒せずんば、老僧が頭(かうべ)を切り將(も)ち去れ。

現代語訳は荒井荒雄著『仰臥禅 白隠禅師内観の秘法による心身改造』(昭和39年 明玄書房刊)から引用し、それを現代仮名遣いに直して示します。
【現代語訳】
自分は仙人還丹の秘訣を知っているから、諸子よ是を試みてやって見よ。不思議な効能があり、雲や霧が霽(は)れて、太陽を見るが如くに薩張りとするぞ(仙人還丹と云うは内観の秘法のことにて丹田に気を錬るの法を云う。仙人が丹薬を錬ると両方へ掛けて意味あり気に云ったものである)。
若し此の秘訣修せんと思うならば、暫く先ず思慮分別を放擲し、持って居る公案などは抛り出して、ぐっすりとよく睡って、それから眼を覚すことにするがよい。そして未だ睡らず眼を合わせない以前に向かって長く両脚を展べて踏み揃い、一身の元気を臍の辺り又は下腹腰脚足心(足心とは足の裏の窪き処)一体の間に充たしめ、時々間断なく此の観念、即ち念想をすること。
・ 我が此の気海丹田、腰脚足心は、凡て我が本来の面目である。其の面目にはどんな鼻の孔が空いているか。
・ 我が此の気海丹田は、凡て我が家郷である。其の家郷とすれば、其の便りはどうか。
・ 我が此の気海丹田は、凡て我が唯心の浄土である。浄土とすれば其の荘厳の有様はどうか。
・ 我が此の気海丹田は、凡て我れ自身の阿弥陀仏である。それなら其の阿弥陀はどんな説法をされているか。
と、間断なく此の妄想(観想)を続けるがよい(妄想とは煩悩妄想の意ではなく、仮想して観念せよ観法せよと云うことにて、四つ共、是を公案の如くして自己と一つになれと云うことである。しかし、公案の工夫の如く工夫と云う方面を専一にすることではなく、気海丹田腰脚足心と云う方へ力を傾けて想念して見よと云うのである)。斯くして想念の効果を積み重ねると、一身の元気がいつとはなしに充満して来て、臍下丹田は瓢(ふくべ、瓢箪)の様に丸く盛り上がって、力が張って、恰(あたか)も篠打ちしない鞠のようであろう。斯のように脇目も振らずひたすらに観想して五日より七日、また十四日、二十一日と経過するならば、以前から五臓六腑の鬱気のつかれし諸病は徹底して平癒するであろう。若しそれが実現しない場合は責任上、自分の首を切って持ち行くがよい。

我が本来の面目とは自分の本来の姿、即ち真我で、中村天風先生によると「先天の一気」、開祖なら「スの言霊」ということになると思います。
荒井荒雄は、「内観の法といっても、白隠禅師のいう内観と心理学でいう内観とは意味が違うのである。心理学でいう内観とは自分の経験を内より観察することであるが、白隠禅師のそれは妄念を放下し、心を空にし、臍下丹田に意識を集中統一して全身全霊を善きもので充たすことである。善きものとは『本来の面目』『唯心の浄土』『己心の弥陀』である。これこそ正に最高の思想であり、これ以上の善きものはないのである。そしてこの最高の思想を気海丹田に凝らし、そこに練り込むのである。いわゆる仙人還丹である。『至人は常に心を下に充たしむ』また『元気をして常に下に充たしむ』と『夜船閑話』にあるように、頭の中に充たす心火逆上でなくして、心火を降下して気海丹田に充たすのである」と解説しています。
私は、禅の高僧が敢えて「妄想すべし」と教えているところがポイントであろうかと思います。善きものとして自由にイメージして良いのです。こうでなければならないとか、理屈に合わないことは受け入れられないとか考えないで、子供が空想するようにイメージして良いのです。
開祖は、「一切の力は気より、気は空に結んでありのままに見よ。箱の中に入れるな。気はいながらにして淤能碁呂島(おのころじま)を一のみに出来る。気の自由を第一に悟れ。気の流れを知りつくせ。朝夕神前に一時間鎮魂をせよ。知恵の光をもって自己を知る。日の本の『ス』を知るのであります」(『合気神髄』p.131)と話されています。この場合の「淤能碁呂島」は沼島というような限定された小さな島ではなく、大きな地球という意味であり、地球の衛星写真を見たことのある人は容易にイメージ出来ると思います。その地球が我が臍下丹田にあって、それを「我が家郷(日の本の『ス』)」と感じても良いようです。
公案のように難しく考える必要はないという意味でも妄想という言葉を遣っているので、自由に善きものをイメージしてみましょう。

「相生き」について、前に私の考えを述べましたが、大本信徒連合会の出口信一先生が、『全米合気界に招かれて』という講演の中で「王仁三郎聖師は盛平師に『貴方の天職は武道だから、その道に精進するように』とアドバイスをした。そして盛平師の武術に『相生流』(あいおいりゅう)と名付けます。『相生』とは天と地を意味し、相手を倒す武術から相手を生かす、また相共に生きるという意味に価値が一変する瞬間でもありました。相生流から相気(あいき)そして現在の合気(あいき)と変遷してゆくわけですが、その理念は変わることなく現在も根底に息づいています」と話されていることを知りました(http://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=59には、もっと他の興味あることが載っていますのでご覧下さい)。
“I am OK. You are OK.”が「相生」であれば、この妄想すべきは、まず“I am OK.”の部分かと思います。
キリスト教の「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」とか「わたし(イエス・キリスト)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とかいう教えの中の「愛する」ということが“OK”です。
内観法(呼吸法、気功、ヨーガ)で、外界から酸素を取り入れ、体内で酸素交換を行い、血流を良くすることによって、細胞が活性化され、身体の健康が向上することは容易に理解できますが、禅病(心身症や自律神経失調症のような精神の病)が治ったということですから、内観法に含まれるこのような自己肯定のプロセスの重要性も見逃せません。
剣道の四病、驚擢疑惑(きょうくぎわく)は剣道だけのものではありません。人生の問題そのものです。現代のように先行きの不安が増大する中で、自分は何のためにこの世に生を受けたかを考えて、本来の面目を明らかにし、それが善きものであることに気付くことも大切です。このことは、「両刃、鋒を交えて避くるを須いず」という場面で、平常心を得るのに欠かせないものになるはずです。

妄想(イメージを自由に膨らませること)と自己肯定(本来の自分になること)がこの方法のポイントであろうかと思います。

posted by 八千代合気会 乾 at 17:47| 白井亨の世界